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<<   作成日時 : 2010/08/20 00:19   >>

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9月3日、ヴィジャヤワーダ滞在二日目。午前11時過ぎの大通りMGロードは凄いことになっていた。

車やオートの往来がまばらで、その代わりに女学生、オーエルさんなどなどの女の子ちゃんが車道にぶちまけられてたのだ!ここは西方浄土か?嬉しくて血圧上がっちゃうよん。

なぜそんなことになったかというと、要するにバスが極端な間引き運転になってしまったのが原因のようだ。たまにやってくるバス(既に満員なのだが)には野郎どもが我先にと乗りこんでしまい(レディ・ファーストなどというのはぶっ飛んじまったか、元々無いのか)、か弱い女の子ちゃんたちは置いてけぼりを喰らって路上に取り残される。乗用車はほとんど見られず、オートはというとこれも軒並み定員の倍近い乗客を積み込んで走ってる。

バスからぶら下がってる野郎どもにも、路上に溢れる女の子ちゃんたちにも悲壮感はあまりない。むしろ、台風が来るぞお、という時のものに近い非常事態の興奮が見て取れる。

この日の朝10時過ぎに、現職のアーンドラ・プラデーシュ州首相にしてAP会議派リーダーでもあったYSラージャシェーカラ・レッディ(YSR)の死亡確認のニュースが流れたのだった。実際には前日の9月2日にカルヌール付近の山中でヘリコプター墜落事故により死亡していた、「カダパの獅子」の享年は60歳。

9月2日の朝8時半過ぎにYSRを載せてハイダラーバードを飛び立ったチョッパーは、約1時間後に地上との交信を絶ち、それ以降、軍・警察・それに近隣の山岳部族民までを動員した捜索活動が続けられていたが、約24時間後に墜落機体が発見され、同時に全乗員の死亡も確認されたのだった。

ヴィジャヤワーダに到着した前日の朝、ホテル・ロビーのTVは首相の行方不明を報じるテルグ語のニュースチャンネルをずっと放映し続けていたのだけれどもまるで気づかず、部屋に配られた朝刊で「YSRがチットゥール郡の村落にサプライズ・ビジット(racchabanda)、敢えてTDP支持の村を選択」などという小さな囲み記事を見て、さすがはポピュリズムの本場だなあ、なんて思ったりしていた。夕方になって初めて事態を悟り、夜はTV英語ニュースに釘付けに。

この時点では、悪天候による墜落または不時着が有力視されていたが、一部にはナクサライトによる攻撃などという説まで流れていた。実は迷彩服に迷彩ドーランでキメたパ●●●●●ン(さすがにやば過ぎて書けない)がロケット・ランチャーで撃墜したんでねえの、などと心の中で軽口。

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YSRを記念して生まれ故郷であるカダパ郡はYSR郡と改名されるとのことだったが、実現したのだろうか。死亡確認の後はTV報道の中心は後継首相の選出に移った。有力候補とされていたのは会議派長老のロサイアー氏(結局この人が現首相)、YSRの息子YSジャガンモーハン氏の二人だったが、NTRの娘、ダッグバーティ・プランダレーシュワリ女史(ナンダムーリ家唯一の会議派政治家である)の名前までもが取りざたされていたのには驚いた。葬儀の一部始終を映し出すTV映像の中で、喪主のジャガンモーハン氏が終始男泣きに泣いていたのが大変印象に残った。印度の公人が人前で泣く姿を見たのは初めてだったように思う。

 南インド・タミルナードゥ州の首相マルドゥール・ゴーパーラン・ラーマチャンドラン(MGR)の急逝が報じられたのは、私がマドラス大学での留学を終えて帰国の途につこうとする前日、一九八七年一二月二四日のことだった。首相の死に端を発した州都マドラスの無政府状態は、にわかには収まらず、目抜き通りの商店は軒並みショーウィンドーを割られ、道行く自動車までが暴徒による襲撃の標的になった。私は出国手続きのため出入国管理局にも足を運べないまま、きゅうきょ荷物をまとめ、二五日未明、身の危険を覚悟で大学院生寮を脱出し、市内のインド人親友のもとに身を寄せるのをよぎなくされた。寮がある海岸通りが、翌日の葬送行進の経路に予定されており、一帯に何万人もの群集が押しよせて危険きわまりないうえ、空港に出ようにも身動きひとつとれなくなってしまう危惧すらあったのだ。
 出発当日、MGRの遺骸を先頭にした長い葬列をテレビ中継で確かめたあと、事前の許可なしで一か八かの出国を試みるべく、友人宅から車で空港へと向かった。市内には、なおも一触即発の不穏な空気が充満していた。空港で出入国管理の担当官をつかまえ、必死に事情を説明して出国許可をとりつけ、めざすシンガポール航空の座席に倒れこんだ時には、疲労と安堵で、もはやなにをする気力も失せてしまっていた。(山下博司、マドラス:政治と映画−MGRの軌跡(『都市の顔・インドの旅』に所収)P.165-166より)


カルカッタの書店で買ってからずっと読んでた小説 The Strike は、まさにこの大事件を扱ったものだった。何だろう、この不気味な符合は。

ともかく、人気のある政治家の不慮の死、本来ならば身の安全を充分に警戒しなければならないところなんだけれど、この時はどうした訳か上の空で、さてこれからどうしようかなどと詰めの甘いふやけ頭。バスを諦めて徒歩で職場へ向かう人々に混じって、とりあえずバスターミナルの方角に向かって歩き出す。ガイジンが一人で歩いてるのを見て、今日はわれわれのCMが亡くなってしまってこんなことになってるのだ、などと解説してくれる通行人もいた。その後やっとオートを捕まえてカナカドゥルガー寺院を参拝(後述)に行く。お寺参りと昼食の後には土産物でも買うかと前の晩に歩いたベサント・ストリート周辺に赴く。鈍い頭がこの時やっと事態を正確に把握した。店、全部閉まっとるわ、実質的なバンドじゃん!これが会議派支持勢力の呼びかけによるものなのか、騒乱を恐れて自主的に閉店したものなのかは分からなかったが、緊急の客が予想される薬局などを除いた全ての商店がシャッターを下ろしてる。ホテルから外に出たばっかの時点では朝だからまだ開いてないのかと思ってたが。

結局、ますます捕まり難くなったオートを諦めて徒歩で帰投。あとはずっと部屋でTV三昧。夕食も、アーンドラ料理を喰わせてくれなかったホテル内レストランを已む無く再度利用することに。街中の食堂が閉まっているからだろうか、市民の利用客も多数。解せないのは、ビュッフェ形式で盛られた大皿の傍で立ったままぱくついてる客が結構いたこと。テーブルはたくさん空いてるってのに、こいつらビュッフェと立食パーティとを混同してるのか?邪魔臭くて落ち着かないことこの上なかった。

まあ、幸いなことに滞在3日の間、ファナティックになった群集を目撃することは全くなかった。実際に見たのは、大事件に遭遇した軽い興奮の中で、色んな不便も仕方がないなあという諦めの笑みを浮かべた人々の姿のみ。しかし帰国してから改めてニュースなどを見たら、ショック死・殉死などでこの事件によって命を落とした人もアーンドラ全体には結構いたのだという。●●さんなんかにもしものことがあった日にゃあ、どうなっちまうんだろ。まあ不死身のあの方は心配ないか。

The Hindu による回顧記事:Y.S. Rajasekhara Reddy : 1949-2009
Times of India によるギャラリー:YSR's funeral procession

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